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イエライシャン
今年は秋の訪れが遅くて、
九月の声が聞こえてもまだまだ寝苦しい夜が続いていた。
時折、庭の片隅の井戸の水を被る音がして、そのまま鍛錬だと汗をかき始める六年生の姿もあった。
文次郎も時折、小平太や留三郎と顔をつき合わせて体内をかけ巡る熱さを吐き出すように野山を駆け回ったり、くったくたに疲れて横になるのが基本だったが、同じ部屋の仙蔵だけはどんな暑さでも涼しげにまぶたを閉じていた。
今夜もまた、蝉の鳴き声がぞろうるさい夜だった。やがて丑三つという頃に汗まみれで目を覚ました文次郎はむくりと起き出すと浴衣の袖を抜きながら縁側へと出た。
月が西の山の上から、煌々と辺りを照らしている。月灯りが無くても勝手知ったる学園の中だから文次郎は目隠しをしても歩ける。
裸足のまま庭へおりて井戸へ向かう。
予想した通り、先客がいた。
「いっそのこと、ここに浸かったら寝られると思わんか?」
「引き上げる長次の身になってみろ。それに鶴瓶が上げられないじゃないか」
小平太は少し考えて確かに、という風に頷いた。
「そうだな!長次に迷惑ばかりかけるわけにはいかないな!」
小平太はもう一度頭からざばーっと水を浴びて空の鶴瓶を文次郎に手渡した。
すぐ後ろで頭を派手に振るから飛沫が文次郎にまで飛んでくる。文次郎も数回頭から浴びて手足を振って水滴を飛ばす。
「そういや仙蔵はまた寝ているのか?」
「あぁ。汗ひとつかいていない」
「化け物か」
「お前にだけは言われたくねぇだろうよ」
右肩に左手を置いて、ぐるぐると右腕を回しているのは準備運動のつもりか。反対側も同じように動かして首まで回し始めた。
「(走りに)行くか?」
「いや、今日は行かねぇ。寝坊したら仙蔵が恐い」
「そうか、じゃまた明日な!」
小平太は最後まで聞かずに、軽く塀を乗り越えて消えた
お見事というしかない身のこなしだった。
「珍しいな」
あらかた体を乾かした文次郎が部屋に戻ると眠っていた仙蔵から声をかけられた。
流石に丑三つ時という時間にかけられた予想外の声に、文次郎はピタリと動きを止めた。
「驚かせたか?」
見えないが、ニヤリと笑っているであろう仙蔵に「そんなことねぇよ」と返すのが精一杯だった。
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